【書評】岡本かの子『仏教人生読本』(底本:『佛教讀本』1934(昭和9)年、大東出版社)
岡本かの子という作家の存在を、皆さんはご存知でしょうか。
かの有名な彫刻家、岡本太郎の生みの母にして晩年に大成した小説家、歌人。
川端康成の推挙で著作を発表、文壇へと上がりました。
現在は、全集も刊行され、一部の作品は文庫本で気軽に手に入れることができます。
私は、新潮文庫の『老妓抄』でこの作家に出会いました。
現在は、青空文庫にもかなり作品が入っているので、
Kindleをお持ちの方は、ぜひそちらから読んでみてくださいね。
今回紹介するのは、『仏教人生読本』。
岡本かの子は、親鸞の「歎異抄」に感銘を受け、仏教研究にもかなり注力していたようですね。そんな彼女が語る、仏教信仰に基づいた人生論が展開されています。
一部、気に入った箇所を引用してみます。
(以下、イタリック体は引用になります。)
第四課 苦労について
料理通の話を聴きますと、「魚肉などで味の深い個所は、魚が生存中、よく使った体の部分にある。例えば鰭の付根の肉だとか、尾の付根の部分とかである。素人は知らないから、そういうところを残しがちだが、実は勿体ないことである」と言いました。
なるほど、この事は人間についても言われます。苦労をしない人よりは、苦労をした人の方が人間味が深いのであります。いわゆる、お坊っちゃん、お嬢ちゃんは、魚にすればどこかの辺の遊び肉でありましょう。
しかし苦労をするにしても、苦労のしくずれということがあります。すっかり苦労に負けてしまって、味も素っ気もなくなってしまい、狡くなり、卑屈になってしまうのがあります。これはどうしたことでありましょう。
人世に苦労があるよりはない方がよろしいのであります。さればといって、現に苦労がある世の中から逃れるには死より外に道がありません。ですから、苦労に立ち向かって、これを凌ぐ力を養わねばなりません。凌ぐ力が養えたら、苦労があってもないのと同様であります。すなわち、苦労をするのは、苦労が目的でなく、人世から苦労を、ないも同様にしようとする方法手段であることが判ります。方法手段に捉われて、目的を忘れてしまうのは、人世の道草であります。苦労のしくずれは、この途中の苦労に捉われ、目的地を忘れた道草の人であります。
(中略:釈尊の教えについて解説があります)
要は、苦労は苦労として冷静にその原因、性質を見究め、勇敢にこれを取除く手段や生活法を取って、さて新しい気持ちで次の経験に向かうのであります。苦労に蝕まれず、苦労を一つの研究材料としてそこに人生の一部一部を観て取って行く。かくして人生の姿を、より多く、より広く、知識し経験したものこそ、苦労に捉われず苦労のし甲斐があった人であります。
魚の鰭や尾の付根の美味いのは、そこの筋肉が激しく使われながら、一向浪や潮に蝕まれず、常にこれに応ずる筋肉の組織を増備して行って、いつも生々活発の気を貯えているので、その質中に自ずと美味になるものが含まれるのでしょう。魚の鰭や尾の付根が、浪や潮に蝕まれたら、腐って落ちるだけです。
この例を聞くにつけ、苦労を上手に摂取して、各人自分達の性質のよき味の分量を増したいものです。
まず、日常的な例示をあげ、それにたいする仏教の教えとは、といった構成で書かれているパターンが多いです。
人によって、刺さる箇所は違ってくると思います。
一冊としてはそれなりに分量がありますが、各章は短めなので読みやすいです。
他にもたくさん引用したい箇所はあるんですが、際限なく長くなるので一節のみでやめておきます。
仏教そのものに興味がなくても、日常を生きやすくするヒントを与えてくれる一冊です。