当世無職気質ー僻地ニート日誌ー

うつ病休職から退職、転職し、ヘロヘロになりながらもなんとか生きてるミドサーOL

【読書】東浩紀『ゲンロン戦記』(2020年、中公新書ラクレ709)

あけましておめでとうございます。

2021年もどうぞよろしくお願いいたします。

今年は2020年よりもブログの更新をがんばっていけたらと思います。

 

さて、2021年の一発目が、、、コレになってしまいました。

(読み終わったのが2020年最後の本で、レビューが年内に間に合わなかった)

Twitterなどで少し話題になっていたので、読んでみました。

2020年12月10日初版ですので、店頭にはもう少し並んでいた??

私が購入したのは12月15日の再版です。(・・・売れたのかしら??)

 

読む動機は、はっきりあったわけではなく、なんとなくですね。

東浩紀については、学生時代に『動物化するポストモダン』を読んだり、最近でも『弱いつながり』を読んだくらいで、そもそもあまり著者に詳しくなくて、

また「ゲンロン」についても「なんか聞いたことあるなぁ」程度で、

オンラインサロンなどのネットワークビジネスとの違いもよくわかっていませんでした。

 

本書カバー折り返しにある著者略歴によりますと、

1971年東京生、批評家・作家。

東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了(学術博士)、

「専門は哲学」ともあり、本書のなかでもご自身の「哲学」(思想?)について、

それなりの紙幅を割かれている印象があります。

 

語り下ろし、ということで、東浩紀が自身の10年を回顧しながら語ったものを、加筆修正してまとめて本書が出来上がったようです。

 

あとがきで、収録後に「残念な事件が起きた」とありますが、前述したように私は著者に対してほとんど関心を持っていない人間だったので、当時の影響等については想像も及びませんが、

ゲンロンの有料会員(?)の方にとっては、衝撃的で、より感情を揺さぶられながら追体験する感覚で本書は読めるのかもしれませんね。

 

ざっくりですが、私が抱いた感想を備忘メモとして。

 

●アカデミズムの世界の人が、起業して奔走した10年の記録

 営業しかやったことのない人間が勢いベンチャー起業したら、

 いかにも発生しそうな管理にまつわるドタバタがたくさん語られています。

 かなり赤裸々に書かれているので、ありそうでなかった起業奮闘記かもしれません。

 また、アカデミズムや論壇の世界にいた人が、

 実業世界をどのように見ているのか、についても垣間見ることができます。

 私は企業の間接部門での就労経験が長いので、

 「あぁ、そういう人多いよね」という複雑な心境で当該部分を味わいました。

 とはいえ、あくまでも少人数の企業体での話なので、

 大企業の間接部門にしかいたことのない人にとっては別の意味で新鮮かも。

 あとは、人間の実年齢と中身って比例しないんだなぁっていう純粋な感想もありますね。これは悪い意味ではなくて、自分のなかの幼さの克服は40代になってもできるんだなぁと。

 私も、人生が中盤から後半に向かいつつあるなかで、

 自分自身の凝り固まった思考の癖や、克服できないと思い込んでいた自分の嫌いな部分がありますが、これから変わることも可能なのかもしれない、

何事も「遅い」ってことはないのかもしれないなと、ちょっと励まされました。

 

●ゲンロンを通して実践している(してきた)著者の思想が面白い

 雑誌の刊行、ゲンロンカフェ、旅行企画、スクールなど、

 多角的に事業を展開されていて、(それを「誤配」の産物と呼ばれていますが)

 そういった一つ一つの成功・失敗談も面白いんですが、

 事業に奔走する中で著者が新たな気づきを得ていく描写を私は面白く感じました。

 

一部引用しますね。

 

「ぼくみたいじゃないやつ」とやっていく意味

(前略)

 言い換えれば、僕は自分の関心が自分だけのものであること、自分が孤独であることを受け入れたわけです。「ぼくみたいなやつ」はどこにもいない。ぼくと同じように、同じ関わりかたでゲンロンをやってくれるひとはいない。けれども、だからこそゲンロンは続けることができる。これからのゲンロンは「ぼくみたいじゃないやつ」が支えていく。ぼくはそのなかでひとりで哲学を続ければいい。ひとりでいい。ひとりだからこそできる。(pp.223)

 

ホモソーシャル性との決別

(前略)

 ホモソーシャルな人間関係が問題視されるのは、要は、自分たちの思考や欲望の等質性に無自覚に依存するあまり、他者を排除してしまうからです。ひらたくいえば、同じような人間ばかり集まっていて気落ち悪いということですが、まさに論壇や批評の世界はそのような批判を浴び続けてきました。

(中略)

 多様性が大切だとひとは簡単にいいます。けれども、その大切さを、自らの人生に引き付けて実感するのはそれほど簡単ではありません。ぼくは2018年にゲンロンと自分がともにコントロール不能になった経験を通して、はじめてその大切さに気づきました。自分のなかには「ぼくみたいなやつ」を集めたいという強いホモソーシャルな欲望が巣くっている。それこそがリスクであり限界なので、意識的に対峙していかないとどうしようもない。

(pp.224-226

 

 同質性の高い人間 と寄り集まってコミュニティを形成し、そこを安住安息の地としてしまうのは、アカデミズムの人間に限った話ではありませんよね。

 濃淡の差はあれど、いろんな人に(自身の日常を内省するという意味で)刺さる部分ではないかと思います。

 

 また、「啓蒙」についての著者の考え方も面白いです。

 今まで著作のなかで述べられてきたような成功失敗を踏まえての、実体験に根ざした「啓蒙」定義だからこそ、実感がこもっていて、また共感させられる印象もありますね。(オンラインサロンなど「信者」を形成するものについては批判的なスタンスをとられているようです。)

 

  いまの日本に必要なのは啓蒙です。啓蒙は、「ファクトを伝える」こととはまったく異なる作業です。ひとはいくら情報を与えても、見たいものしか見ようとしません。その前提のうえで、彼らの「見たいもの」そのものをどう変えるか。それが啓蒙なのです。それは知識の伝達というよりも欲望の変形です。

 日本の知識人はこの意味での啓蒙を忘れています。啓蒙というのは、ほんとうは観客をつくる作業です。それはおれの趣味じゃないから、と第一印象で弾いていたひとを、こっちの見かたや考え方かたの搦め手で粘り強く引きずり込んでいくような作業です。それは、人々を信者とアンチに分けていてはけっしてできません。

(pp.259)

 

 

面白いですね〜

搦め手で粘り強く引きずり込んでいくと、またホモソーシャルなコミュニティができそうな気がしないでもないですが、

結局は何事もバランスの問題なのでしょうかね・・・

 

ともあれ、面白いおじさんだな〜という印象でした。

(とても雑な感想)

今後の著者がどのように活動を展開していくかも、楽しみですね。

 

 

というわけで、書籍の紹介とも感想ともつかない駄文をしたためてしまいましたが、

今回はこの辺で。

 

年末に少し読書も進みましたので、また近日中に更新したいと思います。

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

【読書】外山滋比古『乱読のセレンディピティ』(扶桑社文庫)

こんにちはasakunoです。

 

今回は、外山滋比古『乱読のセレンディピティ』を紹介したいと思います。

 (外山滋比古さん(英文学者)は、今年(2020年)の7月に亡くなられました。

心からご冥福をお祈り申し上げます。)

 

乱読のセレンディピティ (扶桑社文庫)

乱読のセレンディピティ (扶桑社文庫)

 

 

 

さて、前回のブログでピエール・バイヤールの書籍を紹介し、

読書論について関心が高まっていたところで、たまたま書店でこの本と出会いました。

 

asakuno.hatenablog.com 

<概要>

セレンディピティserendipity)”とは、

「思わぬものを偶然に発見する能力。幸運を招きよせる力。」

 を意味します。(広辞苑

 

本書は、講演が元になっているということもあって、

口述筆記のようなライトな書き振りなので、誰でも肩の力を抜いて読める本だと思います。(あとがきには、「大部分は新稿」と記されていますが…)

 

また、知識第一主義を否定するスタンスで語られますので、

上記のピエール・バイヤールの著作を読んで、共感された方には、うってつけかなと思います。

内容は、タイトルどおり乱読の効能について、著者の経験を元に、エッセイのような語り口で綴られていきます。

 

どちらかといえば、これから卒業論文を書く学生向きかなとは思いますが、

読書を趣味とするような社会人の方にとっても、今後の読書スタイルの参考に大いになると思います。

(読書家にほど刺さる論点が多いとは思います…)

<読書に対する著者のスタンス>

本を舐めるように読むのではなく、風のように読め、(まえがき)

 

そして、著者の読書スタンスに大きな影響を与えたであろうエピソードが紹介されています。

 

文庫本のためのまえがき(pp.1〜)

(前略)大学が卒業論文を書かせていたころ、よく勉強する、まじめな学生が、つまらぬレポートのようなものを書いた。参考にした本を引きうつしにしたようなものもある。それが知的正直にもとるという自覚すらないのだからあわれである。

 それに引きかえ、あまり勉強に熱心でなく好きな本を読んでいる学生が、ときとして、生き生きとした、おもしろいモノを書いた。論文とは言えないにしても、自分の考えたことが出ているのである。少なくとも人の考えを借りて自分のもののように思うといった誤りはおかしていない。やはり、本を読みすぎるのは問題である。そう思って、本の読みすぎを反省したのである。

 

…まさに私(前者)だなと思って読みました。

「読まなくてはいけない」というプレッシャーに押しつぶされ、また、参考文献を読み漁りすぎた結果、いろんな研究書のつぎはぎのような卒業論文になってしまう・・・

あるあるではないかと思います。

 

読書一辺倒にならず、自力で考える力を身に着けるためには、どういったスタンスで本と向き合っていったら良いのか、

著者なりの読書論が具体的な経験をもとに語られていきます。

<目次>

1 本はやらない

2 悪書が良書を駆逐する?

3 読書百遍神話

4 読むべし、読まれるべからず ※下段にて一部紹介

5 風のごとく……

6 乱読の意義

7 セレンディピティ

8 『修辞的残像』まで

9 読者の存在

10 エディターシップ

11 母国語発見

12 古典の誕生

13 乱談の活力

14 忘却の美学 ※下段にて一部紹介

15 散歩開眼

16 朝の思想

 

<一部紹介>

私が読んでいて、個人的に面白いなぁと思ったところを、いくつかご紹介したいと思います。

 

4 読むべし、読まれるべからず

・知識と思考は相反する関係にある

知識はすべて借りものである。頭のはたらきによる思考は自力による。知識の借金は、返済の必要がないから気が楽であり、自力で稼いだように錯覚することもできる。

 読書家は、知識と思考が相反する関係にあることが気がつくゆとりもなく、多忙である。知識の方が思考より体裁がいいから、もの知りになって、思考を圧倒する。知識をふりまわして知的活動をしているように誤解する。

(中略)

 本を読んでものを知り、賢くなったように見えても、本当の人間力がそなわっていないことが多い。年をとる前に、知的無能になってしまうのは、独創力にかけているためである。知識は、化石みたいなもの。それに対して思考は生きている。(pp.58)

* * *

 知識があると、本来は役に立たないものでありながら、それを借用したくなる。そしてそれを自分の知識だと思っている。(pp.60)

※下線は引用者による 

 

今までの自分の読書の仕方について、意識しないようにしていたところをストレートに刺してくる感じですよね・・・

14 忘却の美学

・記憶は新陳代謝する

記憶は原形保持を建前とするが、そこから新しいものの生まれる可能性は小さい。忘却が加わって、記憶は止揚されて変形する。ときに消滅するかもしれないが、つよい記憶は忘却をくぐり抜けて再生される。ただもとのままが保持されるのではなく、忘却力による想像的変化をともなう。(pp.197)

 

ピエール・バイヤールが言うところの、

「遮蔽幕(スクリーン)としての書物」や「幻影としての書物」を想い起こしますね。

両者の読書論の方向性が似ているなと思う根拠でもあります。

(まぁ理解が浅かったり、私の解釈誤りも多分にあるでしょうけれど、

それも私の”内なる書物”として消化されてるので仕方ないですね〜。

こんな感じで気楽に書評(ともいえないただの感想駄文)が書けるのも、

ピエール・バイヤールのおかげです。本当に読んでよかった。)

 

 <おわりに>

「本を読んでいない」という「やましさ」を解消することを目的とした、

ピエール・バイヤールの『読んでいない本について堂々と語る方法』と、

外山滋比古の本書を併せて読むだけで、未だに神聖視されている「読書」についての気負いをだいぶ和らげられるのではないかと思います。

 

もちろん、読書そのものを否定するものではありませんし、

いわゆる基本書というのは抑えておくべきものだと思います。

ただ、その基本書(に限りませんが)の「抑え方」について、

精読しよう、理解しようと気合を入れて立ち向かうのと、

両書の読書論を参考にしながら、”自力で考え”、また”書物の自己投影的性格”を意識して立ち向かうのでは、

同じように通読しても、得られる感想は全然異なるものになるのではないでしょうか。

 

 

<参考>『思考の整理学』

ちくま文庫から出ている、『思考の整理学』の方が有名ですね。

大学の書籍部には必ずと言って良いほど平積みされている書籍かと思います。

(私もはるか昔に読んだ記憶はあるんですが、すっかり忘れてしまっているので、

何かのタイミングで読み直したいですね)

思考の整理学 (ちくま文庫)

思考の整理学 (ちくま文庫)

 

ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』

だいぶご無沙汰しておりました。

webサイトを立ち上げたので(asakuno-lab)、

そちらに完全移行しようかとも思っていましたが、

こちらは書き続け、そのバックアップやアーカイブ、修正更新用としてwebサイトを活用していこうかと思っています。

 

さて、今回紹介するのは、こちらの本。

タイトルを見て、「胡散臭そう」と思われた人も多いのではないでしょうか。

(実際、知人の第一声がそれでした)

 

内容は、むしろ逆です。

「本を読んだ」とはどういうことか、という定義に始まり、

最終的には、読んでいない本について語ることは創造的な活動である、と結論づけています。

そして、その結論を論証する題材として、

古今東西の小説や映画に垣間見える「読んだ」「知っている」という状態について、

具体的に分析していきます。

ここが、めちゃくちゃ面白い。

単純な読書案内としてもとても面白いです。

(思わず検索して邦訳があるか確認してしまった本もあります)

 

さて、この本にここまで共感し、面白いと感じた理由ですが、

私は元々、研究者を目指して必死に本を読んでいた時期がありまして、

その際に「当然読んでいるはずの古典」やら、「読まなければいけない先行研究」に圧倒されて、自分を見失い、とても精神的に追い詰められた状況に陥っていました。

おそらく、同じような苦しい状況下で(読まなくてはいけない・理解しなくてはいけない膨大な書籍に押しつぶされそうになりながら)研究を続けている大学院生もとても多いのではないかと思います。

そういう人にこそ、読んで欲しい。

そして、肩の荷を少し軽くして欲しい。

 

この本では、

「読書義務」「通読義務」「本を語るには読んでいなければならない」

というタブー視されている主題の否定から始まります。

同じような読書論は本屋に行けば何種類も発見できますが、

このテーマだけに絞って定義付けをし、ここまで分析している本は

あまりないように思います。

 

「研究書を読んでいない」「研究書を正確に理解できていない」という

【やましさ】から、少しでも楽になれる大学院生が増えることを切に願います。

【読書】安部公房『カンガルー・ノート』(新潮文庫)

こんにちは。asakunoです。

今回は最近読んだ本の紹介を。

 

安部公房の『カンガルー・ノート』です。

カンガルー・ノート (新潮文庫)

カンガルー・ノート (新潮文庫)

 

 

前回、安部公房の『燃えつきた地図』を紹介したんですが、

その記事にも書いたように、同作はあまり安部公房らしくない気がして、

ちょっと物足りなさを感じていました。

asakuno.hatenablog.com

 そこで今回、表題の『カンガルー・ノート』を読んでみることに。

 

 

はい!!安部公房です!!!!

 

 

夢の中の世界をそのまま小説にしたような長編です。

いえ、もしかしたら作者が本当に見た夢を少し立体的にして作品にしたのではと。

解説にありますが、ドナルドキーンも同じ感想を抱いたようですね。

 

最初から最後まで、圧倒的に夢の世界のお話です。

ところでみなさんは、安部公房の作品を読んだ後、夢見は変わりませんか?

私は、安部公房の作品に影響されて、自分の夢がとても色鮮やかになる気がします。

 夢から夢へと、夢渡りをされている感覚になりますね。

 

本作品は、かいわれ大根のお話ですが(詳細はぜひ読んで確認してください)、

ラストシーンまで読んでスッと腹落ちする感覚もあり、

安部公房にあまり馴染みのない方にも読みやすいかもしれません。

 

作品のイメージカラーは、オレンジ色でしょうか。

 

なんとなくイメージで描いたらくがきを最後に載せておきます笑

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カンガルーノートのインスピレーション

 

【書評】安部公房『燃えつきた地図』(新潮文庫)

 

「誰だって、どんな健康な人間だって、自分の知っている場所以外のことなど、知っているわけがないのだ。誰だって、今のぼくと同じように、狭い既知の世界に閉じ込められていることに変りはないのだ。坂のカーブの手前、地下鉄の駅、コーヒー店、その三角形はなるほど狭い。狭すぎる。しかし、この三角形が、あと十倍にひろがったところで、それがどうしたというのだ。三角形が、十角形になったところで、何処がどう違うというのだ。」(pp.390)

 

 

こんにちは。asakunoです、今回は読んだ本の感想を。

燃えつきた地図 (新潮文庫)

燃えつきた地図 (新潮文庫)

 

安部公房の『燃えつきた地図』を読みました。

安部公房で最も有名なのは『砂の女』でしょうか。

あとは、『壁』『箱男』『他人の顔』なども知名度は高いかな。

(ちなみに私は、「水中都市」「デンドロカカリヤ」の2作品がとても好きです)

 

どの作品も、独特の作者の空想の世界に引きずり込まれるような印象がありましたが、

この作品は、そういう観点からいくと、かなり現実的な描写が多かったように思います。

 

文庫の裏側の解説には「現代の都会人の孤独と不安を鮮明に描いて、読者を強烈な不安に誘う」とありましたが、そこまでではないかなぁ。

(「水中都市」の方が、よっぽど強烈鮮明な現代社会の混沌を独特の筆致で描いているように感じますし。)

 

とはいえ、面白かったです。

長編なので、少し寝かせてまた再読したい。

 

「探偵小説」のような構成になっていますが、物語の核心とは関係のない、脇役?風景の一貫としての登場人物の描かれ方にも、かなり興味を惹かれます。

 

そして、印象に残る色の描写。

象徴的に繰り返し強調される色があって、まるで作品に横たわる基調色のように、読んでいる最中ずっと目の裏を支配されている感じになります。

 

田代君という、登場人物のセリフを終わりに替えて。

 

「ほら、あんなに沢山の人間が、たえまなく何処かに向って、歩いていくでしょう……みんな、それぞれ、何かしら目的を持っているんだ……ものすごい数の目的ですよね……だからぼくは、ここに坐って外を眺めるのが好きなんです……くよくよ、つまらないことを考えていたら、取り残されてしまうぞ、みんながああして、休みもせずに歩きつづけているのに、もしも自分に目的がなくなって、他人が歩くのを見ているだけの立場におかれたりしたら、どうするつもりなんだ……そう思っただけで、足元がすくんでしまう……なんだか、すごく侘しい、悲しいような気持ちになって……そして、どんなつまらない目的のためでもいい、とにかく歩いていられるのは幸福なんだってことを、しみじみと感じちゃうんだな……」(pp.294)

 

【書籍】水島広子『つい、「気にしすぎ」てしまう人へ;こころの荷物をそっと下ろす本』(王様文庫)

ごぶさたしております。asakunoです。 今日は久々に本の紹介。

ちょと環境変化にメンタル対応が追いつかなくて、先週体調を崩しました。

そのときに読み直したのがこちらの本です。

 

 

ちなみに、水島広子さんの本は以前にも紹介したことがあります。

対人関係療法」を提示している精神科医の方です。

(↓過去の記事はこちら。)

 

asakuno.hatenablog.com

今回ご紹介するのは、前回とは少し悩みの方向が違うタイプです。

『つい、「気にしすぎ」てしまう人へ』のタイトルからもわかるように、

日常生活のなかで、将来を不安に思ったり人間関係にイライラしてしまったり、そんなストレスの蓄積から疲弊するのを軽減する方法を提案しています。

 

私が「これは!!」と思ってノートに書き留めたフレーズを紹介しますが、

本全体を読んで繋がる(納得できる)部分も多いですので、私の引用で「よくある系だなー」と判断せずに、手にとっていただけたら嬉しなぁと思います。

(内容は平易で、1日で読める分量です。)

 

以下、引用&要旨です。

 

「足りないところはいくらでも見つかってしまう」

 →強い不安や落ち込みなどの感情も含めて、今現在自分に起こっていることは

 「そうか、ショックを受けたからだ」と認めること。

 →(足をぶつけたときに痛みが引くのを待つのと同じように、)

  衝撃が去るのを待つ。

 

●「心に余裕がない」状態

 →視点が「過去」や「未来」にいってしまい、

  「今、起きていること」からずれている。

  現在を犠牲にした結果、本当に未来の安心が手に入るのか?

 →「今」の質を高めていけば、それを積み重ねた先である「未来」も

  質の高いものになる。

 

●「ありのままの自分」を基本にする

 

●不安には、「いつもある不安」と、「あるとき特に強く感じる不安」がある

 「あるとき特に強く感じる不安

 例)「このままでは自分はダメだ!」「ちゃんとできなければ生きていけない!」

 

 →この状態で行動を判断してしまうと、

  衝動的に仕事を辞めたり、好きでもない人との結婚を決めたり、

  本来関心のなかった資格を取るために時間を費やしたり・・・

 

 ⭐︎毎日楽しく穏やかに暮らしている中で、

  少しずつ人生の可能性を広げていくのが

  人生をうまく進めていく秘訣

 

●意義や目的を考えてしまうとき

 =「得る」ほうに目が向いている

 

 →「与える」ことに目を向ければ、「なんのために」ではなく、

  ただ単に目の前の仕事を丁寧にやっていくことの気持ちよさを

  感じられるはず

 

●一般に「どうして?」という姿勢は、現実の否認であり、

 前進を妨げるもの。

 

 →「ひどい目にあったね」

  「やりたいことができなくて残念だったね」

 

 →自分をねぎらい、今後に向けての「傾向と対策」を練る

 →自分のケアをするのはとても大事な「用事」

  自分を守れるのは自分だけ

 

●怒っている人への対応

 怒っている人=相手は「困ってパニックになっている」

 単に「相手の困り方」であって、自分への攻撃ではない

 

●誰もができるだけのことはやっている

 

 

少し参考になったでしょうか??

人間関係ストレスや、将来の不安感から解放されて生きていくことはできません。

現状を無理に肯定もせず、否定もせず、

ただありのままを受け入れる。。。

 

人間が持てる力を最大限に発揮できるのは、心が平和なとき。

(著書より)

 

目の前が真っ暗に思えてしまうときや、もう無理!!って思ってしまうとき、

こういった本をゆっくり読んで、気持ちを落ち着けてみるもの良いのではないかと思います。

 

 

ではでは、今回はこの辺で。

 

 

 

 

 

 

【読書】秦郁彦『実証史学への道』(2018、中央公論新社)

こんばんは、asakunoです。

前記事で病み投稿しましたが、2日程度でなんとか持ち直しました。

ちょっと周辺がバタバタしていて落ち着かない状況が続いてるんですが、

今月上旬に読み終えた本を紹介したいと思います。

 

実証史学への道 - 一歴史家の回想 (単行本)

実証史学への道 - 一歴史家の回想 (単行本)

 

 

秦郁彦先生、大学で日本近代史を学ぶ学生ならば、各種事典で日々お世話になる軍事史の大家ですね。

私も、軍事史を研究していたわけではありませんが、官僚制や内閣人事を調べるのに頻繁に先生が編集した事典を活用しておりました。

 

さて本書、

・読売新聞の連載企画「時代の証言者」シリーズ(2017.3.14〜4.26 全31回)の加筆

・旧陸海軍指導者たちの証言(1953(昭和28)年に著者が巣鴨プリズンにおいて行ったヒアリングの速記ノート

この2点がメインとなっているような気がします。

分量的には、ヒアリングノートがほぼ半分を占めています。

 

前半部分は、著者がどのようなスタンスで歴史研究を行ってきたかの回顧になります。

時代状況は現代と全く異なるとはいえ、研究者がどのような動機で歴史研究を志向していったのか、そしてどのような社会的地位や資金源を得て研究を続けていったのか知ることが出来ます。

(圧倒的な東京大学の強さを思い知らされる感じもあります。。。)

 

後半部分は、陸海軍指導者の証言になります。

軍事史には全く明るくないのですが、とても面白く読めました。

この部分を読むだけでも、例えば、

 Aの証言「Bは●●した」

 Bの証言「Aは私が●●したと言ってるがそれは誤りである」

といったような箇所を発見することができます。

 

史料を批判的に読む意味、一つの事象について、複数の人物が残した史料や新聞雑誌記事等をくまなく探して、客観的事実を拾っていく地道な作業の重要性を、本の中だけすら見つけることができます。

こういう箇所をきっかけに、調べることの面白さや、史料批判の重要性に気づく人が一人でも増えて欲しいですね。

春から入学する大学生にぜひ進めたいですね。

まぁ知り合う目処はないんですが(笑)

 

著書のレビューなんて恐れ多くて出来ませんので、

備忘録的に、ブログに残しておきたい部分を紹介しますね。

 

歴史家の道へ踏み出した動機(pp,13)

 東京裁判で隠し通された部分を解明することで、

 昭和初年の歴史におよその筋道をつけたい

 

●1951年に東京大学に入学、丸山真男から一対一の個人教育を受ける(pp.35)

 日本政治外交史の岡義武ゼミに所属(緒方貞子も同ゼミ生)

 

家永三郎との論争(pp.112〜)

 日本の進歩的文化人(著者の整理)

 ①戦争中、自由主義者として沈黙を強いられ大学を追放、戦後、大学に復帰

  → 矢内原忠雄大内兵衛

 ②戦時中は時流に迎合、戦後、米国民主主義の礼賛者や平和主義者に変節

  → 清水幾太郎家永三郎

 

●歴史の実利的効用(pp.170〜)

 ①教訓の摂取

 ②説得の技法

 ③エンターテイメント

 

 ”職業的詐話師”がガセネタを雑誌社に持ち込む実態を懸念。

 →著者略歴、参考文献、脚注の内容に留意すること

 

 ※脚注(p.174)

  同分野の先行研究は消化しており、

  そのうえで自信と責任を持って論争に応じる姿勢を示すもの 

 

●歴史の観察と解釈について(p.178)

 ①一般理論は存在せず、部分理論しかない

 ②真理は中間にあり

  E.Hカー「ユートピアニズム対レアニズムの螺旋的発展」

 ③職人意識を忘れない

  ”神は細部に宿たまう”

  →歴史家の本分は、マクロの観察よりもミクロの実証作業

 

 

***

以下asakunoのちょっと横道にそれた感想です。

 

歴史研究には、プロの研究者と、アマの「歴史家」がいます。

史学を専攻しない限り、この両者を厳密に分けて著作を分類することは、なかなか難しいのではないかと思います。

歴史小説を「歴史」として読んでしまう人も少なからずいると思います。

また、巷の本屋や図書館に溢れている”歴史本”は、ほとんどがアマの歴史家によるものです。

研究者の著作は、一般向けに書かれた本(新書や『大系 日本の歴史』などのシリーズ物など)をのぞいて、大型書店に行かないと手に入らないですし、流通量も少なく値段もはります。(いわゆる研究書ですね。)

 

私は研究者を諦めてから10年ほど経ちますが、いまだにアマの歴史家の書いた著作に手を出せません。

間口を広くとって、いろんな人に歴史の面白さを伝える、という意味においては、圧倒的にアマの歴史家の著作が優れていることと思います。

ですが、研究者が人生をかけて残した”研究書”の真髄に触れてしまうと、その魅力に圧倒されてしまうものです。

最初のハードルは高いですが、本当はもっと研究書をいろんな人に読んでもらいたいですね。

 

そんな思いが強くなる一冊でした。

 

まとまりなくてすみません。

今回はこのあたりで終わりにします。