当世無職気質ー僻地ニート日誌ー

うつ病休職から退職、転職し、ヘロヘロになりながらもなんとか生きてるミドサーOL

【読書】田中靖浩『会計の世界史 イタリア、イギリス、アメリカ –500年の物語』(2018、日本経済新聞出版社)

こんばんは。asakunoです。

ここ最近、書店でも売れ筋としてよく見かけるこの書籍を読みましたので、

軽くレビューをば。

会計の世界史 イタリア、イギリス、アメリカ――500年の物語

会計の世界史 イタリア、イギリス、アメリカ――500年の物語

 

簿記、財務会計管理会計ファイナンスがそれぞれどのように世界史の中で成立していったか、当時の面白いエピソードを盛り込みながら記述されています。

 

ページ数はありますが、図版や挿絵も多く、行間もゆったりしているので、ゆっくり読んでも半日で読み終えられるかと思います。

 

とても易しく書かれているので、会計・歴史それぞれについて全く予備知識がない人でもスラスラ読めると思います。

中学生や高校生に薦められると思います。

 

減価償却という考え方が生まれた経緯や、原価計算方法の発展、コーポレートファイナンスが生まれた背景など、今までも会計学の教科書でコラム的に触れられてきたエピソードが多い印象はありますが、「世界史」という形で時系列にまとめられているので、より理解しやすいです。

 

もう少し深掘りして欲しかった印象はありますが、

忙しいビジネスマンのティーブレークとしてはちょうど良いのかな。

 

 

似たような書籍もたくさん出ているので、

読み比べもしてみたいですね。

 

簡単ではありますが、今回はこの辺にて。

【書評】国木田独歩「武蔵野」 ー沈められた恋愛の記憶

こんにちは。asakunoです。

今回は、教科書にも必ず載っている、国木田独歩の「武蔵野」を紹介したいと思います。

(ネタバレ?を多く含みますので、まっさらな状態で作品を味わいたい方は、この先は読まないでくださいね。)

 

 刊行されていて手に入りやすいのはこちら。 (青空文庫にも入っています。)

武蔵野 (新潮文庫)

武蔵野 (新潮文庫)

 

 

「武蔵野」という作品は、国木田独歩が渋谷村の茅屋に滞在していた1896(明治29)年9月〜1897(明治30)年4月頃の、国木田自身の日記を元に書かれた随筆です。

(フィクションがふくまれるので、小説の要素もありますが…)

 

「散策」や「落葉林の美」を発見した、等々を指摘されることが多いようですね。

明治30年代の、「武蔵野」の雑木林の繊細な自然描写がとても美しい作品です。

 

ですが、この作品、ただ「武蔵野」を散策した叙景だけではないのです。

 

これについては、没後に刊行された国木田の日記『欺かざるの記』と合わせて読むことで、作品の隠された背景を知ることができるようです。

『欺かざるの記』(『国木田独歩全集』7巻、1966年、学習研究社※抄録が文庫本で刊行されています。国木田独歩全集』自体が、所蔵図書館が少ないので読むのはなかなか困難そう…

 

結論から先に言いますと、

この「武蔵野」が書かれる背景として、独歩(当時26歳)の失恋の物語があるのです。

 

一見、恋愛の要素は全く見受けられない「武蔵野」。

しかし、そもそも独歩が渋谷に一軒家を借りて秋〜翌春まで滞在したのは、失恋の傷を癒す目的もあったのです。

独歩の「武蔵野」の散策は、失恋によって絶望の底にいる自分自身との対話をするための散策でもあったわけですね。

 

誰しも一度は経験したことのある、失恋。

ふだん目にする光景も、失恋の最中では見えかたは変わってくるものです。

 

独歩の描いた「武蔵野」が、失恋のショックの中で生み出されたと思うと、少し作品の印象が変わって来ませんか。

もしかすると、失恋の中にあったからこそ発見された「武蔵野」の光景かもしれません。

 

さて、失恋のお相手は佐々城信子。

信子一家は、北海道の開拓地に住んでいたそうです。独歩は信子との恋愛に後押しされて、北海道で信子とともに生活することを夢想し、実際に北海道へも赴きました。

(その北海道の大自然との対峙も、「武蔵野」の発見にも繋がったようです。余談ですが。)

そして、逗子にて2人で結婚生活をこころみたものの破綻、信子は母のいる北海道に帰っていったそうです。

その5ヶ月後、独歩は渋谷に茅屋を借り、武蔵野散策を始めることになります。

 

孫引きになっていまいますが、赤坂憲雄『武蔵野をよむ』(岩波新書1740、2018)に引用されている独歩の日記『欺かざるの記』を見てみましょう。

 

武蔵野の一隅に此の冬を送る。われ此の生活を悲まざる可し。昨年の今月今夜は逗子に彼の女と共に枕にひゞく波音をきゝて限りなき愛の夢に出入せしことあり。今はたゞ独り此の淋しき草堂に此のものさびしき夜を送る。あゝ吾は此の生活を悲まざるべし。

(十一月二十六日)

(赤坂同上、pp.40)

 

このような、悲哀に満ち満ちた日記が続いているようです。

相当なショックだったことがわかります。去年の同じ日付に何をしていたかまで細かく思い出して日記に書くなんて…その思いの強さに恐怖すら感じます。

 

しかし、こんな強い感情を内に秘めつつも、「武蔵野」の自然描写には微塵も失恋の影は偲ばせていません。

 

一方、「武蔵野」の後半には、次のような場面があります。

 

 今より三年前の夏のことであった。自分はある友と市中の寓居を出でて三崎町の停車場から境まで乗り、そこで下りて北へ真直に四五丁ゆくと桜橋という小さな橋がある、それを渡ると一軒の掛茶屋がある、この茶屋の婆さんが自分に向かって、「今時分、何にしに来ただア」と問うたことがあった。

(中略)

 茶屋を出て、自分らは、そろそろ小金井の堤を、水上のほうへとのぼり初めた。ああその日の散歩がどんなに楽しかったろう。(後略)

 

ここでは「ある友と」、と独歩は表現していますが、赤坂憲雄は『欺かざるの記』と照らし合わせることで、これが8月の信子との逢瀬との記録であることを立証しています。

そして、こういった「ズラシと隠蔽」の意図を、「郊外の散策の純粋さ」を損なわないためだと推測しています。

 

このように失恋の記憶は、ときには完全に捨象される一方で、あるときには執念深く形を変えて残されているのです。

 

文字通り読んでしまえば、秋から冬にかけて「武蔵野」が最も美しく映える季節、瞑想にふけりながら五感で自然を感じる朗らかな散策、友との懐かしい散策の思い出の記憶のように、見えてしまいます。

しかし、独歩の人生を並べて読んでみると、そこには激しい失恋の痛手から立ち直ろうとしつつ、未練をなかなか断ち切れない1人の青年が苦悩する姿も浮かび上がってきます。

 

独歩はこの失恋の後、約10年後に生涯を閉じることになります。

失恋の影響はわかりませんが、短くも悲劇的な独歩の人生を考えながら、「武蔵野」を味わってみるのも、面白いかもしれませんね。

 

***

 

閑話休題

なんの前置きもなく「武蔵野」を連呼してきましたが、

そもそも、「武蔵野」とはどの地域を指すのでしょうか。

江戸幕府開府までは、中世の古戦場趾以外には名所旧跡もなく、人の住まない荒涼とした野原であった「武蔵野」。

西行芭蕉にも、萩、ススキ、萱(カヤ)、オミナエシ等とともに詠まれてきました。

 

独歩は、「武蔵野」の中で、新たに武蔵野の範囲の定義を試みています。

(厳密には、本文中「朋友」の言葉として語らせています。)

東半分は

 

亀井戸辺より小松川へかけ木下川から堀切を包んで千住近傍へ到って止まる。この範囲は異論があれば取り除いてもよい。

 

と、断定にためらいがありますが、西半分についてははっきり領域を示しています。

 

そこで僕は武蔵野はまず雑司谷から起こって線を引いてみると、それから板橋の中仙道の西側を通って川越近傍まで達し、君の一編に示された入間郡を包んで円く甲武線の立川駅に来る。この範囲の間に所沢、田無などいう駅がどんなに趣味が多いか……ことに夏の緑の深いころは。さて立川からは多摩川を限界として上丸辺まで下る。八王子はけっして武蔵野には入れられない。そして丸子から下目黒に返る。この範囲の間に布田、登戸、二子などのどんなに趣味が多いか。以上は西反面。

 

これを地図にプロットしてみると、↓のようになります。

f:id:asakuno:20190207081125p:plain

「武蔵野」の西半分

西半分だけでも、現在の私たちが抱く「武蔵野」イメージよりもかなり広範囲を想定していることがわかります。

 

当時は明治30年代。独歩が居を構えた渋谷村(現・渋谷区NHK放送センター近辺)のあたりはまだ "郊外”だったそうです。

この「武蔵野」に含まれるエリアは、当時はまだ都市化の波に完全には飲み込まれていない場所だったということでしょうか。興味深いですね。

 

 

なお、本記事を書くにあたり、非常に参考にさせていただいた書籍はこちらです。

武蔵野をよむ (岩波新書)

武蔵野をよむ (岩波新書)

 

 

当時の自然環境や都市の状況、同時代の作家(田山花袋柳田国男)の残した記録などから「武蔵野」を丁寧に検証するとともに、先行研究において「江戸の文学的伝統」からの「切断」を指摘していた柄谷行人に批判的な立場を取っています。

そして、近世からの連続性(「歌枕的な伝統」の承継)を立証しています。

 

【読書】岡本かの子 「鶴は病みき」(青空文庫)

こんばんは。asakunoです。

今回は最近読んだ本を紹介します。

 

少し前に紹介した『仏教人生読本』と同じ著者、岡本かの子の著作です。

asakuno.hatenablog.com

 ★★以下、ネタバレも含みます★★

 

 岡本かの子の文壇デビュー作で、1936(昭和11)年に発表(文學界)されました。

(推薦したのが川端康成だったそうです。)

 

鶴は病みき

鶴は病みき

 

晩年の芥川龍之介が「麻川荘之助」という男性として描かれています。

その他、川端康成谷崎潤一郎、おそらくは葉山三千子と思われる人物も名前を変えて登場します。(私もまだ想像の域を出ない部分もあります。)

 

***

場面は、鎌倉の別荘。

廊下続きの隣の一棟に麻川も逗留していることを知った主人公(葉子)。

麻川の元にはひっきりなしに来客。信者も多い。

葉子はそんな中、来客には見せない麻川の日常姿を観察。

また、対"客"ではない、麻川との会話。滲み出る麻川の人間味。

 

それから5年後の初春、偶然の再会。

病魔に冒され変わり果てた麻川の姿。

再訪を期すも、 その夏に麻川は自害。

 ***

 

当時の文人たちの交流や逗留の様子を垣間見ることができて、

読んでいてワクワクしてしまいますよね。

本作は、その後に書かれた「老妓抄」や「金魚繚乱」などに比べると、かなり淡白な描写であるような印象を受けます。

これをかわぎりに、かの子は短期間のうちにどんどん技法を成熟させていったんですね。

 

非常に個人的な感想になりますが、作品そのものよりも、かの子の視点でみた当時の文壇を記録した、ある種の史料的価値を感じてしまいます。

もう少し、人間関係について勉強して、作品をしっかり味わえるようになりたいですね。

 

理解を助ける参考文献としては、下記のようなものがあるようです。

こちらも近々に読んでみたいですね。

川端康成「「鶴は病みき」の作者」〈新潮社版『川端康成全集29』に所収〉

亀井勝一郎講談社版『亀井勝一郎全集補巻1』に所収〉

 

 

 <補足>

↓「鶴は病みき」は収録されていませんが、

それ以外の主な代表作がまとめられています。ご参考まで。

岡本かの子 (ちくま日本文学)

岡本かの子 (ちくま日本文学)

 

【書評】岡本かの子『仏教人生読本』(底本:『佛教讀本』1934(昭和9)年、大東出版社)

仏教人生読本 (中公文庫)

仏教人生読本 (中公文庫)

 

岡本かの子という作家の存在を、皆さんはご存知でしょうか。

かの有名な彫刻家、岡本太郎の生みの母にして晩年に大成した小説家、歌人

川端康成の推挙で著作を発表、文壇へと上がりました。

現在は、全集も刊行され、一部の作品は文庫本で気軽に手に入れることができます。

 

私は、新潮文庫の『老妓抄』でこの作家に出会いました。

老妓抄 (新潮文庫)

老妓抄 (新潮文庫)

 

現在は、青空文庫にもかなり作品が入っているので、

Kindleをお持ちの方は、ぜひそちらから読んでみてくださいね。

 

今回紹介するのは、『仏教人生読本』。

岡本かの子は、親鸞の「歎異抄」に感銘を受け、仏教研究にもかなり注力していたようですね。そんな彼女が語る、仏教信仰に基づいた人生論が展開されています。

 

一部、気に入った箇所を引用してみます。

 (以下、イタリック体は引用になります。)

 

 第四課 苦労について

 料理通の話を聴きますと、「魚肉などで味の深い個所は、魚が生存中、よく使った体の部分にある。例えば鰭の付根の肉だとか、尾の付根の部分とかである。素人は知らないから、そういうところを残しがちだが、実は勿体ないことである」と言いました。

 なるほど、この事は人間についても言われます。苦労をしない人よりは、苦労をした人の方が人間味が深いのであります。いわゆる、お坊っちゃん、お嬢ちゃんは、魚にすればどこかの辺の遊び肉でありましょう。

 しかし苦労をするにしても、苦労のしくずれということがあります。すっかり苦労に負けてしまって、味も素っ気もなくなってしまい、狡くなり、卑屈になってしまうのがあります。これはどうしたことでありましょう。

 人世に苦労があるよりはない方がよろしいのであります。さればといって、現に苦労がある世の中から逃れるには死より外に道がありません。ですから、苦労に立ち向かって、これを凌ぐ力を養わねばなりません。凌ぐ力が養えたら、苦労があってもないのと同様であります。すなわち、苦労をするのは、苦労が目的でなく、人世から苦労を、ないも同様にしようとする方法手段であることが判ります。方法手段に捉われて、目的を忘れてしまうのは、人世の道草であります。苦労のしくずれは、この途中の苦労に捉われ、目的地を忘れた道草の人であります。

(中略:釈尊の教えについて解説があります)

 要は、苦労は苦労として冷静にその原因、性質を見究め、勇敢にこれを取除く手段や生活法を取って、さて新しい気持ちで次の経験に向かうのであります。苦労に蝕まれず、苦労を一つの研究材料としてそこに人生の一部一部を観て取って行く。かくして人生の姿を、より多く、より広く、知識し経験したものこそ、苦労に捉われず苦労のし甲斐があった人であります。

 魚の鰭や尾の付根の美味いのは、そこの筋肉が激しく使われながら、一向浪や潮に蝕まれず、常にこれに応ずる筋肉の組織を増備して行って、いつも生々活発の気を貯えているので、その質中に自ずと美味になるものが含まれるのでしょう。魚の鰭や尾の付根が、浪や潮に蝕まれたら、腐って落ちるだけです。

 この例を聞くにつけ、苦労を上手に摂取して、各人自分達の性質のよき味の分量を増したいものです。

 

 

まず、日常的な例示をあげ、それにたいする仏教の教えとは、といった構成で書かれているパターンが多いです。

人によって、刺さる箇所は違ってくると思います。

一冊としてはそれなりに分量がありますが、各章は短めなので読みやすいです。

他にもたくさん引用したい箇所はあるんですが、際限なく長くなるので一節のみでやめておきます。

 

仏教そのものに興味がなくても、日常を生きやすくするヒントを与えてくれる一冊です。

 

 

 

 

 【書評】群ようこ『パントスープとネコ日和』

こんにちは。asakunoです。

今回の書評は、群ようこの『パンとスープとネコ日和』。

(シリーズになっていて現在も続編が出ているようですね。)

群ようこの本を読むの、実ははじめてでした。

パンとスープとネコ日和 (ハルキ文庫 む 2-4)

パンとスープとネコ日和 (ハルキ文庫 む 2-4)

 

 

私はあまり存命の作家の本は読まないのですが(偏りw)、本作はAmazonプライムでドラマを見て、それが面白かったので原作を読みたくなった、というのが発端です。

 

小林聡子さん主演でドラマ化されたこの作品、とても評価が高いようです。

私も、ドラマのシンプルで丁寧な暮らしや、淡々と生きる主人公や、心温かい周囲の人間に惹かれ、最終話まで一気に見てしまいました。おすすめです。

 

さて本題の原作を読んだ感想。一言で表すと、

小説とドラマは全くの別物。

描こうとする人間像も世界観も異なる気がします。

ドラマを見たときに、「あまりにも完成しすぎた世界だな」と感じたのですが、やはりテレビメディア化すると、万人受けしやすいように美化・脚色、再構成も大幅に加わるのでしょうね。

 

小説の文体は平易で、とても読みやすいです。ファンが多いのもうなずけます。

一方で、かなりドライな印象もあります。小説を読んでいて、温度・湿度・季節感を感じることはほとんどありませんでした。終始一貫して淡々とした描写が続きます。

ですが、それゆえに、同じトーンで人間の醜い部分も描写されるため、かえっておぞましさが増幅されるように感じられるシーンもあります。

 

筆者の冷徹な人間観察、他者に対するある種のあきらめ感。

世の中には嫌な奴も多いけれど、時々救われることもあって、

そんな毎日を繰り返しながら、人間は生きている。

そんなメッセージを勝手に読み取りました。

 

そういうわけで、ドラマの世界観が好きな方は、あまり原作は読まない方がよいかも。

ただ軽妙な文体は、世界観の重たさを読者に押し付けてこないので、読後に気分が落ち込むこともありません。

ひとつの物語としては、消化しやすいと思います。

 

うーーん。。。

個人的にあまり好みではないので、あまり良いレビューが書けませんでした。

あと何作品か読んでみないと、群ようこを理解することもできませんね。

 

また機会があったら、別の作品を読んでみようかなと思います。

 

ではでは今回はこの辺で。

 

カズオ・イシグロ(土屋政雄 訳)『わたしを離さないで』(2012年、早川書房)

カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』を読みました。

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

 

 2017年のノーベル文学賞の受賞で、一時期どの書店にも大量に平積みされていましたね。

私は、受賞をきっかけに作者を知りました。

 1954年長崎出身の日系イギリス人で、ご両親とは日本語で会話していたらしいですが、日本語は母語ではないようです。

 

筆名から、どことなく日本文学のような感覚で読み始めてしまいますが、

まったくもって海外文学です。

谷崎潤一郎に影響を受けた、との言説を見かけましたが、

翻訳のせいもあってか、とくに類似性は感じなかったですね。

 

あらすじについて書きたいところですが、同著の解説(英米文学研究者 柴田元幸)にもあるように、

 

「(前略)この小説は、ごく控えめに言ってもものすごく変わった小説であり、作品世界を成り立たせている要素一つひとつを、読者が自分で発見すべきだと思うからだ。予備知識は少なければ少ないほどよい作品なのである。」

 

ぜひ、何も知らない状態から読んでみてください。

 

読み始めは、「これは一体どういう状況なのか?」「主人公はいったい何者なのか?」「どこまでが現実世界にあることで、どこからがフィクションなのか?」等々、はてなだらけでした。

 

中盤以降、次第に世界が明らかになってきます。

そして、読むのを中断することが出来なくなります。

 

「入念に構成された」との評価をされることが多いようですが、

本当にそのとおりだと思います。全面的に首肯。

その構成の秀逸さに、正直ぞっとするくらいです。

 

読み手の感情は後半になるにつれて大きく揺さぶられますが、

ものがたり自体は、超然・悠然と、“細部まで抑制がきいた”描写が続いていきますので、前半から丁寧に情況を思い描きながら読み進めていくと良いと思います。

 

映画化、ドラマ化(舞台を日本に置き換えて)もされていますね。

気になります。

 

そもそも翻訳ではなく、原著でも読めたらいいなぁ・・・(英語力が;)

Never Let Me Go

Never Let Me Go

 

 

好き嫌いが分かれる作家かもしれませんが、

1作品は読んでみて損はないのではないかと思います。

オススメします。

 

ではでは、今回はこの辺りで。

 

 

**********

いいねボタン励みになります。

コメントもお待ちしております☆

 

 

【書評】笑い飯 哲夫『ブッダも笑う仏教のはなし』(2016、サンマーク出版)

今回は、軽めの本の紹介です。

ブッダも笑う仏教のはなし

ブッダも笑う仏教のはなし

 

お笑い芸人の笑い飯の哲夫さんの著書です。

仏教に詳しい方だとは全く知りませんでした。

般若心経についても書かれていて、仏教に関する書籍としては、2冊目のようですね。

 

口語調で非常に読みやすく、面白く、わかりやすい。オススメです。

(ボケもところどころ挟んでくるので、本人の声が聞こえてきそうなくらい笑)

わかりにくい仏教の概念を、小・中学生でもわかるような現代的な喩えで解説してくれています。

これを読むと、歴史の授業や博物館での仏像鑑賞、お葬式など色々なシーンで「わかる!!」ものが多くなり、日常がとても面白くなると思います。

 

内容は、仏教の成り立ちから、歴史的な流れ、現代の日本の仏教、といった流れで構成されています。

高校の日本史の教科書に出てくる単語も、意識して盛り込まれているので、日本史を受験科目に考えている人は、これを読めば仏教関係のワードが頭にめっちゃ入って忘れなくなると思います。

 

仏教が日本に輸入されて1500年以上経過しますが、やはり色んな形で日本の風土に溶け込んでいることがよくわかります。

 

また、現代の生きづらさを克服するためにも、示唆に富む仏教。

次はもう少し固めの入門書にチャレンジしてみようかなぁと思います。

 

今回はこの辺で。